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「九条」の歴史

 『摂陽群談』には「いは衢壊(くじょう)に作る。貞享年中(1684〜88)この地の衢を切て、淀川の流を直す」とあって、このとき衢(みち)を切ったため、衢壊(くじょう)の名が生まれたことに由来し、「九条」は衢壊の字をもじったものだそうです。
 明治期に開設された松島の盛り場と川口波止場の開港は、後背地の九条が「西の心斎橋」と称されるほどの賑わいをもたらし、木津川に架かる千代崎橋から、九条新道商店街を抜けて安治川を渡る「源平衛渡し」まで、一日中人通りが絶えなかったといいます。新旧の港、川口・九条と築港を結ぶみなと通は、多くの人と情報が集まるビジネス拠点となり、大正から昭和初期にかけて船会社、倉庫会社、銀行等が競うようにビルディングを建設し、九条地区のメインストリートとなりました。
 また、空襲で焼け野原になった地域では、道路・公園・下水道などの整備や改善を目指す戦災復興土地区画整理事業が実施されました。公共交通の主役となった地下鉄は、昭和39年(1964年)中央線の開通。開通が40年もの間実現しなかった「阪神西大阪線」の難波延伸工事がようやく進んでおり、2008年には西九条〜九条〜難波間が開通し近鉄電車と相互乗り入れ運転を行うことになっています。

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